『言語における意味』の第2章 (p.23) には,「認識的自己拘束」(epistemic commitment) という用語が登場します:
(…)ライオンズが言うように,(最小の)言明とは「認識的な自己拘束[コミットメント]とともに」発話されて命題を表わす文のことだと定義できる.つまり,真であると提示された命題を表わす文のことだと定義できる.
これだけでは,「認識的自己拘束」がどういうものなのか,いまひとつわかりませんね.また,一般的な語義としては,commitment とはようするに強く信じることですから ("Commitment is a strong belief in an idea or system" [Cobuild]),「自己拘束」などと座りのわるい訳語を当てなくてよいではないか,という意見もあるでしょう.
これはライオンズの用語ですから,彼の解説を聞いてみましょう (John Lyons,
Linguistic Semantics, Cambridge University Press, 1995, pp. 253-4):
言明をするというのは,ある命題を表明しつつ,それと同時に,その命題に対して特定の態度を表明することだ.筆者はこの態度を「認識的自己拘束[コミットメント]」(epistemic commitment) と呼ぶ.その理由は,のちのち様相の概念をみていくにつれて明らかになっていくだろう.(epistemic(認識的)という用語は「知識」を意味するギリシャ語に由来する.論理学では様相論理でとくに知識と関連事項を扱う分野を指すのに「認識様相」という.) 特定の命題を言明すれば,かならずこれに自己拘束[コミットメント]をすることになる.ここでいう自己拘束[コミットメント]とは,その命題が真であると信じたり知っていたりするという意味ではなく,その言明に続く他のさまざまな言明が――さらには,その言明に付随したり後続したりするふるまいから妥当に推論できるどんなことも――その命題が真だという信念と整合しなくてはならないという意味だ.そのため,次の例(言明としてとらえた場合)には容認不可能または背理のような性格がある:
(36) It is raining but I don't believe it(雨が降っている,でもぼくはそう信じていない)
こうした言明をするとき,話し手は認識的自己拘束を破ってしまっているのだ.
原文も併記しておきます:
To make a statement is to express a proposition and simultaneously to express a particular attitude towards it. I will call this attitude, for reasons which will be clearer when we look at the notion of modality, epistemic commitment. (The term 'epistemic', which comes from a Greek word meaning "knowledge", is used by logicians to refer to that branch of modal logic that deals with knowledge and related matter.) Anyone who states a certain proposition is committed to it, not in the sense that they must in fact know or believe it to be true, but in the sense that their subsequent statements - and anything that can be legitimately inferred from their accompanying and subsequent behaviour - must be consistent with the belief that it is true. Hence the unacceptability or paradoxical character of
(36) It is raining but I don't believe it
(construed as a statement). In making any such statement the speaker is guilty of a breach of epistemic commitment.
ここではっきりと述べているように,epistemic commitment とは,(1) 話し手がある命題を信じるという態度ではなく;(2) 話し手がその命題を信じていることと他の発言・行動が整合させるという態度のことです.一般的な commitment の語義でいえば,「約束」に近い用法です ("If you make a commitment to do something, you promise that you will do it." [Cobuild]).
ぼくの考えでは,このライオンズの定義は,言明の社会的・対人的な側面に注意を向けている点が大事です.ある命題を言明するというのは,その命題を自分が信じていると信頼してもらっていいと他の人にうけあうことです.上記の例文 (36) もそうですが,たとえば「いまものすごい大雨がふっていますよ」と他の人に言っておきながら,みんなが「やあそうですか,それはいけませんね」とカサを用意しているのに当人は(カサがないわけでもないのに)手ぶらででかけようとしたら,いったいどういうことだろうと不審に思いますよね.ある命題に認識的なコミットメントをとるというのは,その命題に
自分の言動をしばりつけるということです.その命題を信じていたら言わないはずなことを言ったり,やらないはずなことをやったりすれば,ライオンズのいうように「認識的自己拘束を破って」しまうことになるわけです.
――というわけで,このライオンズの定義をふまえて,いささか座りがわるいものの,本書では「認識的自己拘束」という訳語を当てています.