2013年9月9日月曜日

装丁のこと

雑談をしていてこの本のことが話題にのぼったとき,きまって,「装丁がすばらしいですね」とお褒めの言葉をいただきます.

また,原著者のクルーズ先生にも船便で1冊届けたところ,"a handsome volume" との感想がかえってきました.

とても好評いただいている装丁なのですが,実は,いくつかある案のなかで,編集者さんたちは実際に採用されているこのデザインがいちおしだったのに,ぼくひとりだけは別の案に一票を入れていました.

ぼくの推していた案が却下されて,ほんとうによかったと思います.

本書の装丁は,tobufune さんが担当されました:[このあたりを参照].

2013年6月29日土曜日

グーグルブックスで一部閲覧できます

グーグルブックスで,『言語における意味』の中身を閲覧したり検索したりできるようになっています:【リンク



2013年6月10日月曜日

動画:チャールズ&レイ・イームズ「通信入門」(1953年)

「イームズ・チェア」や「パワーズ・オブ・テン」でおなじみのデザイナー,チャールズ&レイ・イームズ夫妻の映像作品 "A Communications Primer":






2013年6月5日水曜日

補足:サールは「不適切性条件」という用語を自らは使わない

第18章「言語行為」の訳註 (p.464) で,サールの「その用語には一度も満足したことがない」という発言を引用しています.

この引用元は,Conversations with John Searle, Libros En Red, 2001, p.104 です.訳註にはページを明記しておらず,不親切でした.

ついでながら,この発言をもう少し長く引用しておきましょう:

G.F.:
When you distinguish between conditions of performance and conditions of satisfaction, I understand that the /conditions of performance/ are what Austiin called felicity conditions. Are you not using the term felicity conditions anymore? 
John Searle:
I was never happy with that term because it fails to distinguish between conditions which are necessary for the performance of the act at all, and conditions were[sic] are necessary for the performance of the act in a non-defective style. I can make a statement to you that is defective in that it is insincere, but it's still a statement. 

G.F.(インタビュアー):
遂行条件と充足条件とを区別しておられるわけですが,遂行条件というのはオースティンのいう適切性条件のことだと私は理解しています.適切性条件という用語はいま用いていないのですか? 
サール
その用語には一度も満足したことがないんだ.というのも,行為を遂行するために必要な条件と,不足のないスタイルで行為を遂行するのに必要な条件,この2つを区別できていないんだ.ぼくの言明が,誠実じゃないって点で不足のある場合もあるとして,でも,それが言明なことにかわりはないでしょ.

さらに続き:

I make the distinction between conditions on the successful performance and conditions on the non-defective performance. A performance can be defective and still be a successful performance. Now that's a kind of ugly terminology, but the idea is that Austin's felicity conditions gloss over that distinction. So I can't make an assertion to you without committing myself to the truth in the proposition. That's the essential condition. But, of course, having done that, I can make all kinds of defective assertions - if I'm lying, or I don't have enough evidence, I'm not in a position to say the things that I'm saying. And those will be infelicitous, but the utterance is still a case of my making an assertion. 
Austin's notion of felicity conditions disguises the distinction between those that are essential for the performance of the act at all, and those that just have to do with whether or not the act was performed in a non-defective way. And I want to make that distinction explicit. 

うまくいく遂行発話の条件と不足のない遂行発話の条件とを私は区別している.不足があるけど遂行発話がうまくいくという場合があるんだ.まあ,すっきりしない用語法ではあるけれどね.しかしオースティンの適切性条件では,そういう区別が消え去ってしまう.そういう考えなんです.だから,命題が真だということにコミットせずに主張しようとしてもムリなことでしょ.それが本質条件.だけど,もちろん,そこさえできていれば,主張にどんな種類の不足があったっていい──ぼくがうそをついていたり,十分な証拠をもっていなかったり,それを言うべき立場になかったりしてもいい.不適切にはなるにせよ,主張をなしていることにかわりはないんだ.
適切性条件というオースティンの認識法は,行為を遂行するうえで本質的〔essential=不可欠〕なことと行為を不足のないかたちでなせるかどうかに関わることとの区別をぼやかしてしまう.ぼくとしては,その区別を明示的にしたいんだ.




2013年2月9日土曜日

訳語について:speech act は「言語行為」か「発話行為」か

「なんでその訳語にしたの?」という疑問に答えます.

本書では,speech act の訳語に「言語行為」を選んでいます.この訳語は,サールの古典的な『言語行為』(勁草書房,1986年)その他で広く採用されているものです.

他方で,同じ speech act を「発話行為」と訳す著作も多数あります.代表的な著作を挙げると,たとえば山梨正明『発話行為』(大修館書店,1987年)がそうです.

さて,本書でなぜ「言語行為」の方を採用しているかと言えば,理由は単純で,これの他に "utterance act" という用語があるからです."utterance" は「発話」の訳が定着していてほぼ統一がとれていますから,これは「発話行為」と訳すのがいちばんいいでしょう.すると,speech act まで「発話行為」と訳せば,用語がかぶって,紛らわしくなってしまいます.そのため,同じ程度に標準的な訳語でも「言語行為」を採用した方が読者に「さて,どっちの用語のことだろう?」と余計な負担をさせずにすみます.

「speech act = 発話行為」という訳語が間違っているとは思いません.ただ,混乱が少ない方がいいだろうとは思っています.

Meaning in Language パルプ小説バージョン!

『言語における意味』がむかしのSFパルプ小説だったら:



Pulp-O-Mizer で生成しました.