2014年9月5日金曜日
2013年6月5日水曜日
補足:サールは「不適切性条件」という用語を自らは使わない
第18章「言語行為」の訳註 (p.464) で,サールの「その用語には一度も満足したことがない」という発言を引用しています.
この引用元は,Conversations with John Searle, Libros En Red, 2001, p.104 です.訳註にはページを明記しておらず,不親切でした.
ついでながら,この発言をもう少し長く引用しておきましょう:
さらに続き:
この引用元は,Conversations with John Searle, Libros En Red, 2001, p.104 です.訳註にはページを明記しておらず,不親切でした.
ついでながら,この発言をもう少し長く引用しておきましょう:
G.F.:
When you distinguish between conditions of performance and conditions of satisfaction, I understand that the /conditions of performance/ are what Austiin called felicity conditions. Are you not using the term felicity conditions anymore?
John Searle:
I was never happy with that term because it fails to distinguish between conditions which are necessary for the performance of the act at all, and conditions were[sic] are necessary for the performance of the act in a non-defective style. I can make a statement to you that is defective in that it is insincere, but it's still a statement.
G.F.(インタビュアー):
遂行条件と充足条件とを区別しておられるわけですが,遂行条件というのはオースティンのいう適切性条件のことだと私は理解しています.適切性条件という用語はいま用いていないのですか?
サール:
その用語には一度も満足したことがないんだ.というのも,行為を遂行するために必要な条件と,不足のないスタイルで行為を遂行するのに必要な条件,この2つを区別できていないんだ.ぼくの言明が,誠実じゃないって点で不足のある場合もあるとして,でも,それが言明なことにかわりはないでしょ.
さらに続き:
I make the distinction between conditions on the successful performance and conditions on the non-defective performance. A performance can be defective and still be a successful performance. Now that's a kind of ugly terminology, but the idea is that Austin's felicity conditions gloss over that distinction. So I can't make an assertion to you without committing myself to the truth in the proposition. That's the essential condition. But, of course, having done that, I can make all kinds of defective assertions - if I'm lying, or I don't have enough evidence, I'm not in a position to say the things that I'm saying. And those will be infelicitous, but the utterance is still a case of my making an assertion.
Austin's notion of felicity conditions disguises the distinction between those that are essential for the performance of the act at all, and those that just have to do with whether or not the act was performed in a non-defective way. And I want to make that distinction explicit.
うまくいく遂行発話の条件と不足のない遂行発話の条件とを私は区別している.不足があるけど遂行発話がうまくいくという場合があるんだ.まあ,すっきりしない用語法ではあるけれどね.しかしオースティンの適切性条件では,そういう区別が消え去ってしまう.そういう考えなんです.だから,命題が真だということにコミットせずに主張しようとしてもムリなことでしょ.それが本質条件.だけど,もちろん,そこさえできていれば,主張にどんな種類の不足があったっていい──ぼくがうそをついていたり,十分な証拠をもっていなかったり,それを言うべき立場になかったりしてもいい.不適切にはなるにせよ,主張をなしていることにかわりはないんだ.
適切性条件というオースティンの認識法は,行為を遂行するうえで本質的〔essential=不可欠〕なことと行為を不足のないかたちでなせるかどうかに関わることとの区別をぼやかしてしまう.ぼくとしては,その区別を明示的にしたいんだ.
2013年1月27日日曜日
「通信モデル」から「推論モデル」へ (2):通信モデルにはそれがわからんのですよ
前回のエントリでは,20世紀の中盤から後半にかけて広く受け入れられた「通信モデル」について,あらましを紹介しました.その要点は,次のとおりです:
さて,この通信モデルは,いまの言語学では大きく見直され,「推論モデル」への移行が進んでいます.もちろん,これはファッションのような流行で変わっているわけではなく,通信モデルでは言語による伝達を説明する上で大きな問題があるためです.詳しい話は,のちほど標準的な教科書による解説を訳文でごらんいただくとして,まずは,ざっくりと単純なことをお話ししましょう.
- ポイント1:「伝達とは送信者から受信者へとメッセージを送信することである」;
- ポイント2:「そのメッセージは送信者と受信者が共有しているコードに照らし合わせて信号に符号化され,解読される」;
- ポイント3:「送信者が最初にもっているメッセージと同じものが受信者によって再現されれば,伝達が成功したことになる」
さて,この通信モデルは,いまの言語学では大きく見直され,「推論モデル」への移行が進んでいます.もちろん,これはファッションのような流行で変わっているわけではなく,通信モデルでは言語による伝達を説明する上で大きな問題があるためです.詳しい話は,のちほど標準的な教科書による解説を訳文でごらんいただくとして,まずは,ざっくりと単純なことをお話ししましょう.
「通信モデル」から「推論モデル」へ (1):通信モデルのあらまし
このエントリとその続編では,「通信モデル」から「推論モデル」への移行について,簡略におはなしします.今回は,まず通信モデルについて.
『言語における意味』の訳者まえがきでほんの少しだけ書いたように,いまの言語学では,伝達(コミュニケーション)についての考え方が旧来の「通信モデル」(「コード・モデル」または「メッセージ・モデル」)から「推論モデル」に移行しています.
『言語における意味』にしても,この第3版ではいくらか推論の過程を取り込んだ通信モデルを第1章で解説していますが,第2版では典型的な通信モデルを解説していました(のちほど旧版の訳文をごらんいただきます).
この文章の要点:
『言語における意味』の訳者まえがきでほんの少しだけ書いたように,いまの言語学では,伝達(コミュニケーション)についての考え方が旧来の「通信モデル」(「コード・モデル」または「メッセージ・モデル」)から「推論モデル」に移行しています.
『言語における意味』にしても,この第3版ではいくらか推論の過程を取り込んだ通信モデルを第1章で解説していますが,第2版では典型的な通信モデルを解説していました(のちほど旧版の訳文をごらんいただきます).
この文章の要点:
- 通信モデルによれば,伝達とは,送信者がコードを参照してメッセージを信号に符号化し,受信者が同じコードを参照してその信号を復号しメッセージを再現するプロセスであり,送信者のメッセージとそっくり同じものを受信者が取り出せれば伝達が成功したことになる.
- 通信モデルは,通信理論から言語学や記号論に取り入れられ,戦後に広く普及した.
2013年1月26日土曜日
「認識的自己拘束(コミットメント)」とは?:Lyons (1995)
『言語における意味』の第2章 (p.23) には,「認識的自己拘束」(epistemic commitment) という用語が登場します:
これはライオンズの用語ですから,彼の解説を聞いてみましょう (John Lyons, Linguistic Semantics, Cambridge University Press, 1995, pp. 253-4):
原文も併記しておきます:
ここではっきりと述べているように,epistemic commitment とは,(1) 話し手がある命題を信じるという態度ではなく;(2) 話し手がその命題を信じていることと他の発言・行動が整合させるという態度のことです.一般的な commitment の語義でいえば,「約束」に近い用法です ("If you make a commitment to do something, you promise that you will do it." [Cobuild]).
ぼくの考えでは,このライオンズの定義は,言明の社会的・対人的な側面に注意を向けている点が大事です.ある命題を言明するというのは,その命題を自分が信じていると信頼してもらっていいと他の人にうけあうことです.上記の例文 (36) もそうですが,たとえば「いまものすごい大雨がふっていますよ」と他の人に言っておきながら,みんなが「やあそうですか,それはいけませんね」とカサを用意しているのに当人は(カサがないわけでもないのに)手ぶらででかけようとしたら,いったいどういうことだろうと不審に思いますよね.ある命題に認識的なコミットメントをとるというのは,その命題に自分の言動をしばりつけるということです.その命題を信じていたら言わないはずなことを言ったり,やらないはずなことをやったりすれば,ライオンズのいうように「認識的自己拘束を破って」しまうことになるわけです.
――というわけで,このライオンズの定義をふまえて,いささか座りがわるいものの,本書では「認識的自己拘束」という訳語を当てています.
(…)ライオンズが言うように,(最小の)言明とは「認識的な自己拘束[コミットメント]とともに」発話されて命題を表わす文のことだと定義できる.つまり,真であると提示された命題を表わす文のことだと定義できる.これだけでは,「認識的自己拘束」がどういうものなのか,いまひとつわかりませんね.また,一般的な語義としては,commitment とはようするに強く信じることですから ("Commitment is a strong belief in an idea or system" [Cobuild]),「自己拘束」などと座りのわるい訳語を当てなくてよいではないか,という意見もあるでしょう.
これはライオンズの用語ですから,彼の解説を聞いてみましょう (John Lyons, Linguistic Semantics, Cambridge University Press, 1995, pp. 253-4):
言明をするというのは,ある命題を表明しつつ,それと同時に,その命題に対して特定の態度を表明することだ.筆者はこの態度を「認識的自己拘束[コミットメント]」(epistemic commitment) と呼ぶ.その理由は,のちのち様相の概念をみていくにつれて明らかになっていくだろう.(epistemic(認識的)という用語は「知識」を意味するギリシャ語に由来する.論理学では様相論理でとくに知識と関連事項を扱う分野を指すのに「認識様相」という.) 特定の命題を言明すれば,かならずこれに自己拘束[コミットメント]をすることになる.ここでいう自己拘束[コミットメント]とは,その命題が真であると信じたり知っていたりするという意味ではなく,その言明に続く他のさまざまな言明が――さらには,その言明に付随したり後続したりするふるまいから妥当に推論できるどんなことも――その命題が真だという信念と整合しなくてはならないという意味だ.そのため,次の例(言明としてとらえた場合)には容認不可能または背理のような性格がある:
(36) It is raining but I don't believe it(雨が降っている,でもぼくはそう信じていない)こうした言明をするとき,話し手は認識的自己拘束を破ってしまっているのだ.
原文も併記しておきます:
To make a statement is to express a proposition and simultaneously to express a particular attitude towards it. I will call this attitude, for reasons which will be clearer when we look at the notion of modality, epistemic commitment. (The term 'epistemic', which comes from a Greek word meaning "knowledge", is used by logicians to refer to that branch of modal logic that deals with knowledge and related matter.) Anyone who states a certain proposition is committed to it, not in the sense that they must in fact know or believe it to be true, but in the sense that their subsequent statements - and anything that can be legitimately inferred from their accompanying and subsequent behaviour - must be consistent with the belief that it is true. Hence the unacceptability or paradoxical character of
(36) It is raining but I don't believe it(construed as a statement). In making any such statement the speaker is guilty of a breach of epistemic commitment.
ここではっきりと述べているように,epistemic commitment とは,(1) 話し手がある命題を信じるという態度ではなく;(2) 話し手がその命題を信じていることと他の発言・行動が整合させるという態度のことです.一般的な commitment の語義でいえば,「約束」に近い用法です ("If you make a commitment to do something, you promise that you will do it." [Cobuild]).
ぼくの考えでは,このライオンズの定義は,言明の社会的・対人的な側面に注意を向けている点が大事です.ある命題を言明するというのは,その命題を自分が信じていると信頼してもらっていいと他の人にうけあうことです.上記の例文 (36) もそうですが,たとえば「いまものすごい大雨がふっていますよ」と他の人に言っておきながら,みんなが「やあそうですか,それはいけませんね」とカサを用意しているのに当人は(カサがないわけでもないのに)手ぶらででかけようとしたら,いったいどういうことだろうと不審に思いますよね.ある命題に認識的なコミットメントをとるというのは,その命題に自分の言動をしばりつけるということです.その命題を信じていたら言わないはずなことを言ったり,やらないはずなことをやったりすれば,ライオンズのいうように「認識的自己拘束を破って」しまうことになるわけです.
――というわけで,このライオンズの定義をふまえて,いささか座りがわるいものの,本書では「認識的自己拘束」という訳語を当てています.
登録:
投稿 (Atom)
