「指示」の話題(『言語における意味』第19章)に関連して,英語代名詞 it と that についておもしろい観察を述べた文献を紹介します.
Kamio, A. and Thomas, M. "Some referential properties of English it and that." In Kamio and Takami (eds.) Function and Structure. John Benjamins, 1998. pp. 289-315.
代名詞 it と that は,私たち日本語話者にとっては,よく似ているように思えますね.訳してしまえばどちらも「それ」になってしまうこともよくあります:
a. It's not true!
b. That's not true!
「それは事実じゃない!」
実際,両者を入れ替えても同じように自然な文になる例もあります:
(1) She bought a blanket during her lunch hour and brought {a. it / b. that} back with her to the office.
(「彼女はランチタイムの間に毛布を買って,それをオフィスに持ち帰った」;a blanket という名詞句に照応している)
(2)Tom knew that Joanne wanted to sell the car, and {a. it / b. that} bothered him considerably.
(「ジョアンナが車を売りたがっているのをトムは知っていた.そのことで彼はとても困っていた」;Joanne wanted to sell the car という節の内容を指している)
(Kamio and Thomas 1998: 289-290)
こうした例では,it と言おうと,that と言おうと,はっきりしたちがいはありません.
しかし,it と that にまったく何のちがいもない,というわけではなく,同じ文脈・同じ文で比較してみると一方は自然で他方は不自然になる場合が見つかります.なにかを指して使う用法について,両者のちがいを検討したのが,この神尾とトーマスの論文です.
本稿では,英語 it と that にみられる特定の用法を検討する.一見すると,この2つは大半において入れ替え可能な照応的代名詞に思えるが,微妙な機能的・語用論的なちがいを示すのがわかる。そうしたちがいは、話し言葉と書き言葉の広い範囲にまたがって一貫している.本稿の主たる関心は先行文脈にある節を先行詞として,これをかんらかの意味で「代理する」事例である.
さて,それでは具体的にどんなちがいがみつかるのでしょうか.神尾とトーマスは,このような仮説を提案しています:
it と that の指示的特性のちがいに関して本稿が第一に提案するのは,it の指示対象は我々の言う「事前知識」でなくてはならない,というものである.事前知識とは,典型的に当該の会話のやりとりに導入される前から話し手がすでにアクセスを有している情報をいう.これと対照的に,that の指示対象は必ずしも話し手にとって事前知識でなくてかまわない.
(Our first proposal about the different referential properties of it and that is that the referent of it must be what we call "prior knowledge" to the speaker. Prior knowledge is typically information which a speaker already has access to before it enters into the relevant conversational exchange. In contrast, the referent of that need not be prior knowledge to the speaker.)
(p.291)
どういうことでしょうか.例文を見ていきましょう.
代名詞 it と that が対比される事例
(5)
[興奮した様子の A が息せき切って部屋に駆け込んでくる]
A: Guess what! I just won the lottery! (ねえねえ! 宝くじあたったよ! )
B1: *It's amazing!
B2: That' amazing!
Bさんの答えは 1 でも 2 でも訳してしまえば「それはすごい!」ですが,B1 は不自然で容認不可能,B2 は自然で容認可能です.どうしてこのちがいがでてくるのか――この場面では,Bさんは宝くじ当選の知らせをいま聞いたばかりで,事前知識にはありません.ですから,神尾とトーマスの仮説が予測するとおり,事前知識であることを必要とする it はダメで,that は自然に使えるわけです.
事前知識かどうかは言語表現そのものの問題ではなくて,実際に表現を使う文脈の問題です.そのため,まったく同じ文 it's amazing でも,場面設定さえ変えてしまえば容認度がちがってきます.次の例をみましょう:
(6)
A: Guess what! I just won the lottery! (ねえねえ! 宝くじがあたったよ!)
B: (Yes,) it's amazing! I heard about it on the radio, and I've invited everyone on the block to our house for a party! ((うん,)そいつはすごいね! さっきラジオで聞いたよ.だから,近所の人たちをみんなパーティに招待したところだよ!)
こんどは,Bさんには宝くじ当選の事前知識があります.そのため,it's amazing と発話しても自然になります.次の例も同様です:
(7)
A: Overnight parking on the street is prohibited in Brookline. (路上に夜通し駐車するのはブルックリンでは禁じられているんだよ)
B1: That's absurd!
B2: It's absurd!
ここでも,Bさんの受け答えはどちらも訳せば「そんなのバカげてる!」になってしまいますが,神尾とトーマスによれば,自然に容認される文脈がちがいます.B1 の発話は,たとえば「ブルックリンの住民ではなくてそこの駐車規制に不案内な人の口からなら発せられる」(p. 291).他方で,B2 の発話は it で事前知識であることを必要とします.こちらは,「ブルックリンの住民で市の条例をよく承知している人なら言える」(ibid.).
こうした it と that の指示的特性のちがいは,コピュラ文の主語以外の生起環境でも観察されます.次の例では,it/that は動詞の目的語として生起しています:
(8)
A: Fred arrived even later than Sally. (フレッドはあのサリーよりも遅れて到着したよ)
B1: I know that.(それは知ってるよ) 〔事前知識であっても that は使える〕
B2: I didn't know that. (それは知らなかった)
B3: I know it. (それは知ってるよ)
B4: *I didn't know it. (それは知らなかった)
that は「事前知識であってはいけない」というわけではないので,B1 は普通に使えます.容認されないのは B4 で,「知らなかった」といいながら事前知識にあることを必要とする it を使っています.これも神尾とトーマスの仮説から予測できる,というわけです.
同様の例:
(9)
A: Janice fired her secretary yesterday. (昨日,ジャニスは秘書を解雇したよ)
B1: yes, I'm aware of that. (うん,それは承知してる)
B2: Really? I wasn't aware of that. (ホント? それは知らなかったな)
B3: Yes, I'm aware of it. (うん,それは承知してる)
B4: *Really? I wasn't aware of it. (ホント? それは知らなかったな)
ところが,remember や recall では,動詞を否定した文でも it が生起できます:
(10) Fred may have told me that he wanted to quit his job, but I don't remember {a. it / b. that}.
(フレッドは仕事をやめたいんだとぼくに言ってたかもしれないけれど,そのことを思い出せないんだ)
では,これは反例でしょうか?
著者たちはそうでない,と言います.なぜなら,ここで話し手が否認しているのは,フレッドが言ったことを思い出せる能力だからです.他方で,話し手は「フレッドがいまの仕事をやめたがっていた」という情報が自分の知識の一部にあったこと〔事前知識〕は否認していません.
この情報を保有したことがないと主張すると,容認しにくくなります:
この情報を保有したことがないと主張すると,容認しにくくなります:
(11) Fred never told me that he wanted to quit his job, so naturally I don't remember {a. ?it / b. that}.
(フレッドは仕事をやめたいんだとぼくに言わなかった.だから,当然ながらぼくはそのことを思い出せないんだ)
以上をふまえて,神尾とトーマスはあらためて仮説を提示します:
それで我々が主張するのは次のとおり.(5) から (11) の例で it を首尾よく使うためには,it の指示対象となる情報が談話に導入される前のどこかの時点で,その情報を知っている必要がある.他方で,that の使用にはそうした必要がない.
Our claim, then, is that felicitous use of it in (5) through (11) requires that the speaker have knowledge of the referent of it at some point before this information enters into the discourse, but that no such requirement is imposed on the use of that.
(p. 293)
この「事前知識」は,比較的に新しく知ったばかりの情報でもかまわない場合があります:
カールは,アリスの知らせについてなんの事前知識ももちあわせていません.ですから,これは反例になりそうなものです.しかし,この場面では,カールが「しばらく」(long moment) 時間をとってアリスの発言を飲み込むことができていることになっています.また,その沈黙につづくカールの発言は,彼がアリスの意思をある程度受け入れていることを示しています.このため,事前知識を必要とする it を使っても容認可能となっているのだと神尾とトーマスは言います.「カールは完全に新しいニュース,しかもかなりショッキングだろうと想定できるニュースを,ごく短い時間で自分のなかに取り込んでおり,そのため,これを事前知識として扱うことができる」(p. 293).
この裏付けとして,著者たちはカールの台詞を次のように変えた場合の容認度と対比します:
例 (13) では,カールはじっくりと考えることなく返事をしていて,it の指示対象となる情報を取り込む時間をかけていません.そのため,ここで it を使うと不自然になるのだ,というのが著者たちの考えです.念のため,that はどうかと言えば,ここで "That will be the end of our relationship!"と言うのは自然で容認されるとのことです (p. 294).
この事例の検討からわかるのは,比較的に新しく知った情報であっても,事前知識の資格をもちうるということです.ただ,そうした場合,新しい情報は話し手の知識に統合される機会がなくてはいけないという追加の条件がつきます.その条件さえ満たされれば,話し手は比較的新しい情報も it で指示することができる,と著者たちはまとめています.
なお,it も that も,言語的な先行詞は必要としません.たんに,it の指示対象となる情報については概念的な事前知識が求められるのです.
(12) [アリスとカールは長く同棲しているカップルで,最近,2人の関係に問題が起きている.ある晩,帰宅したアリスはあるニュースをカールにつきつける]
"Carl, I have something important to tell you. Mark called me into his office this morning and said he wanted to give me Gino's job. He made me a great offer and I accepted it. But of course I'll have to move to San Francisco."(カール.大事なことを言わなきゃいけないの.マークが今朝,わたしをオフィスに呼んで,ジーノの仕事をくれるって言ったの.すごい申し出だから,やりますって言ったわ.でも,もちろん,そうなるとわたしはサンフランシスコに引っ越さなきゃいけないでしょ)
カールは無言でしばらくアリスをじっと見つめたあと,つとめて穏やかな声で,物腰やわらかに,こう言う.
"I hope /it/ will make you very happy, my dear."(それでキミがしあわせになってくれればいいと思うよ.)
カールは,アリスの知らせについてなんの事前知識ももちあわせていません.ですから,これは反例になりそうなものです.しかし,この場面では,カールが「しばらく」(long moment) 時間をとってアリスの発言を飲み込むことができていることになっています.また,その沈黙につづくカールの発言は,彼がアリスの意思をある程度受け入れていることを示しています.このため,事前知識を必要とする it を使っても容認可能となっているのだと神尾とトーマスは言います.「カールは完全に新しいニュース,しかもかなりショッキングだろうと想定できるニュースを,ごく短い時間で自分のなかに取り込んでおり,そのため,これを事前知識として扱うことができる」(p. 293).
この裏付けとして,著者たちはカールの台詞を次のように変えた場合の容認度と対比します:
(13) [同じ状況で]
アリス:"... But of course I'll have to move to San Francisco."(…でも,もちろん,そうなるとわたしはサンフランシスコに引っ越さなきゃいけないでしょ)
カール:"*It will be the end of our relationship!"(そうなったら,ぼくらの関係はおしまいだ!)
例 (13) では,カールはじっくりと考えることなく返事をしていて,it の指示対象となる情報を取り込む時間をかけていません.そのため,ここで it を使うと不自然になるのだ,というのが著者たちの考えです.念のため,that はどうかと言えば,ここで "That will be the end of our relationship!"と言うのは自然で容認されるとのことです (p. 294).
この事例の検討からわかるのは,比較的に新しく知った情報であっても,事前知識の資格をもちうるということです.ただ,そうした場合,新しい情報は話し手の知識に統合される機会がなくてはいけないという追加の条件がつきます.その条件さえ満たされれば,話し手は比較的新しい情報も it で指示することができる,と著者たちはまとめています.
なお,it も that も,言語的な先行詞は必要としません.たんに,it の指示対象となる情報については概念的な事前知識が求められるのです.
(14) [A と B がハイウェイを車で走っている.いきなり,右前方の体やがパンクする.]
A1: I knew {a. it / b. that} was going to happen someday! (いつかこうなるってわかってたんだ!)
A2: I had no idea {a. *it / b. that} would ever happen! (まさかこんなことが起こるなんて!)
まとめ
以上, it/that の対比を示す神尾とトーマスの議論を見てきました.
『言語における意味』の「訳者まえがき」で書いたように,日本語の指示詞(コ・ソ・ア)を私たち母語話者はごく自然に意識することなく微妙に使い分けています.英語でも事情は同じで,母語話者(「英語ネイティブ」)はごく当たり前に代名詞を使い分けています.しかし,日本語話者も英語話者も,そうした微妙な使い分けの背後にある仕組み(意味や語用論的条件のちがい)を自分では意識して知らずに使っているものです.いまご紹介したような検討をしてはじめて,そうした暗黙の知識という氷山の一角がいくらか垣間見えてきます.
ところで,実はここまでの観察は Kamio and Thomas (1998) のほんの序盤でしかありません.続きのセクションは下記の通りです.関心があれば,ぜひご一読を.
3. Wide Reference
3.1 Wide and Narrow Reference
4. A Model of the Referential Properties of /It/ and /That/
4.1 A Processing View of It and That
4.2 Two Kinds of 'Exception' to the Model
5. It and That with Nominal Antecedents
5.1 It and That and Presupposed Information
5.2 Linde's (1979) Analysis
5.3 Summary
6. Anaphoric Pronouns in Other Languages
6.1 French
6.2 Japanese
7. Conclusion
言語論、意味論に興味を持ち拝読致しております。
返信削除この代名詞の使い分けの説明は西欧言語学の形式主義的文法論の現象論に過ぎず、itとthatの意義の本質的相違を明かにすべきと考えます。
時枝誠記は『国語学原論』で代名詞と呼ばれる品詞の本質は、話者と対象との関係認識の表現であることを明らかにしています。これを受け、宮下眞二は『英語文法批判』でit と thatについて次のように記しています。
it と thatは共に三人称、つまり話者と聞き手以外の対象に関する関係認識の表現です。違いは、thatが話者との距離の認識を含んでいるのに対して、itは話者との距離の如何に関わらず、実体を、その性的側面には拘わらず、単なる実体として第3人称関係で捉えて表現する。例――
This is my watch;it’s a Swiss one. これは私の時計だ。スイス製だ。
‘Who’s that at the door?’――‘It’s the postman’ 「ドアの所にいるのは誰だい。」――「郵便屋さんだ。」
つまり、itはthisやthatよりも抽象的だ。それ故に既に具体的に表現されたものやthisやthatで表現されたものを再び表現するのに用いられるのである。例――
That’s it. それだよ。
~
日本語の中称代名詞「それ」は対象を話手との距離関係で捉えるが、英語のitには距離関係の把握はない。
さらに、thatが接続詞と解されたり、関係代名詞とされたりする誤りを正しています。関係代名詞という名称自体が本来は、同じ関係詞と呼ばれるべきです。また、it~that~構文のitとthatも関係詞(代名詞)であることを論じています。このような、本質を把握すれば例記されている動詞否定の文も自ずと明らかかと思います。
関係詞論については、は「関係詞論-1-論の批判的検討」他を参照下さい。■
ご教示ありがとうございます.時枝はたいへん刺激的でおもしろいですね.勉強します.
削除最後がコピペミスで申し訳ありません。正しくは、
返信削除「関係詞論-1-論の批判的検討」鈴木覺
ですが、『時枝学説の継承と三浦理論の展開 (言語過程説の探求) 』に「関係詞論―〈代名詞〉論の批判的検討」として収録されています。■
紹介いただいたKamio and Thomas (1998) を読むと、かれらの言語論がいかに機能論、形式論でしかないかが良く判ります。
返信削除フランス語文法でも東郷雄二氏などが、さかんに前方照応、後方照合などと論じていますが代名詞の機能を問題にしているにすぎません。「代理」も又機能に過ぎません。
既知未知論は情報理論的発想で、かつて日本語の「は」と「が」の使い分けで、L
.W.Chaefが『意味と言語構造』で提唱した「古い情報」「新しい情報」を大野晋が借用した事例があります。紹介いただいた論文もこの発想の焼き直しに過ぎないことが判ります。
この辺は下記を参照下さい。
<「が」と「は」の使いわけ―大野晋の新しい論文を読んで―>三浦つとむ(雑誌『試行』NO.45 1976.4.)
<代名詞の機能をめぐって>三浦つとむ(雑誌『試行』NO.37 1972.11.)■